帰り路

最終バスの中は異国の言葉で溢れている。音楽で疲れを和らげる人、誰かと機械を通して会話をする人、目を閉じて車体の動きに身を任せる人、それぞれの方法でそれぞれの帰路を過ごしている。私はというと、通路を挟んで右隣に座っている若者の動向に気を配っていた。刺激しないように、目にも触れないように、ここに在ることすら気にならないように、静かに、耳へ流れこむ音楽にだけ集中しようとしていた。

 

この土地へ来て1週間が過ぎたところで、心身ともに疲弊していた。初めの週ということもあって未だ慣れない仕事を終わらせることができなかった私が悪いのだけれど、気がつくと最終バスの時間が近づいていた。このバスを逃すと1時間半の暗い帰り道が待っている。焦りながらも区切りをつけて停留所まで走り、幸運にも最終より1つ前のバスをちょうど捕まえることができた。

 

座れたことに安心して一息ついたところで、私の後ろから若者がバスに乗車してきた。何やら声を発している。耳にイヤホンをはめているので彼の言葉がわからなかったが、気分が良くて周りと話をしたいという感じではない。むしろその対極のようだ。それぞれ過ごす乗客たちも彼に意識を向けていることはわかった。しかし誰もそれを前面に押し出したりはしない。彼は周りを見渡しているくらいで、特別おかしなことをしているわけではない。しかし明らかに普通ではなかった。

私の近くの座席に座ってもまだ周りを見渡していた。何かを探すというよりは、乗客たちをじっと観察するかのような、あまり快くない視線を送っていた。

 

何が彼をそうさせているのかは分からない。アルコールの匂いもしないし、視線がフラフラ漂う感じでもない。気にくわない何かがあって自分の中に留めることができないでいてなんでもないからぶつける対象を探しているように見えた。時折何か言葉を発していて、言葉の意味は分からないけれど私は怯える事しかできない。

少しすると近くにいた中年男性と口論を始めた。その男性が厳しい口調で注意をしていたように聞こえた。私が優しく諭すことができれば、とも思うけれど自分の生まれた場所でさえ同じように怯えるのだろうから、この考えはあまり意味を持たない。自覚して自分を嫌になるのにも慣れた。

 

耳に流れるメロディーは穏やかだけど、私の鼓動を緩めるには不十分だった。どうせなら激しい曲にしてしまって気を紛らわせよう。別の曲を流す。激しいけれど楽しそうなメロディー。こちらに来るまでの飛行機の中で見た映画のサントラで、映画の中では主人公がメロディーに合わせてスキップをしていた。状況に合わないからこそ耳に入れたくなる。私もスキップをしたくなってきた。バス停から家までの間に小さな公園があったし、そこを抜けてみようか。どうせ夜だしあまり人もいないだろう。夜の公園は少し怖いけれど、ただの道をスキップするよりか良い気がする。

 

数分後、例の彼は降りていった。降りる直前まで男性と口論をしていたようで、私でもわかるくらい簡単な汚い言葉を大声で吐き、去っていった。彼が下りた後の車内はみんながホッとしたのか少し穏やかな空気に感じた。

 

ああはなりたくないな…。自分の考えに自分で驚いてしまう。何様だろうか。何もできていないくせに。生まれた国を出るというだけで意気揚々としていた自分を恨めしく思う。

望んでいた生活はこんなものだったのだろうか。こんなことなら自分の国にとどまっていた方が普通に幸せに暮らせたんじゃないか。友達と通ったカフェのアップルパイが食べたい。お母さんはどうやって部屋の掃除をしていたっけ。同級生の皆は元気でやっているのかな。おしゃべりってどうするんだっけ。

彼がいなくなってホッとしてしまったけれど、私こそ此処にいてはいけないように思えた。ころころと変わる感情に、自分で自分の姿がよくわからなくなってしまう。

 

とはいえ、自分の感情をそのまま出していいわけはない。そんなこと言っても私は自分の感情さえもよくわからなくなっていているから、ただ押し殺すだけ。感情を外に出すか中に秘めるかはあまり違いがないように思えた。これが人間なのだろうか。しつけられた犬や猫のようだ。

 

彼と私では内包しているものは同じだったのかもしれない。包み紙が違うだけ。彼は穴が開いてしまっていて漏れて出てきていた。私の包みもくしゃくしゃになっているから、もうしばらくしたら中身が漏れてしまう。中には大したものは入っていないから問題はないかもしれないけれど、自分のものだといくら量がなくても勿体無い。早いところ綻んだところをどうにかしないといけない。

 

以前に新しい環境に移ったときも3日から1週間ほどで最も感情が沈んでいた。今回もそうなのだろう。はじめから飛ばすと碌なことがない。

まだ始めの週だから会社での立ち位置も定まっていない。まだまだ自分を出せないし周りも自分を出していない。あまりにも周りを気にしすぎてしまう性格は、損だ。とりあえず焦らず自分の仕事を終わらせられるようにならないと。気を張りすぎないように、周りを少しずつ気に出来るようになろう。

 

明日は休みだし、少しゆっくりとしていい朝ご飯でも食べに行こう。カメラを持って。気持ちを記録できますように。さっきの彼にもいい休日が訪れますように。